どこまでが『翻訳調』か – terms of endearment から考える

翻訳のあれこれ

まったく答えの出ないような問いをタイトルにしてしまいましたが…
今回は、日本語にはない英語特有の、愛情を示す呼びかけの言葉について考えてみます。

呼びかけの言葉の種類、例

愛情を示す呼びかけの言葉なんてくどい言い方をしてしまいましたが、例を挙げるとこんな感じです。

sweetheart, honey, dude, buddy (主にアメリカ)
 e.g. What happened to you, honey? 
   「何があったんだ、ハニー?」
darling, love, dear (主にイギリス)
 e.g. How was your day, darling? 
   「今日はどうだったかしら、ダーリン?」
mate (主にイギリス、オーストラリア)
 e.g. How’s it going, mate? 
   「元気かい、メイト?」

あーあれね。と思っていただけたのではないでしょうか。

英語では “terms of endearment” と言われています。話し相手への愛情や好意を示し、優しく呼びかける時にこの言葉たちが活躍します。

日本語の呼びかけの言葉はある?

さて、日本語にendearmentの言葉はあるのでしょうか。

調べると、「~ちゃん」「~くん」がそれに相当するとのことです。

確かに、友だちや恋人に何かをお願いする時に〇〇ちゃんというと丁寧かつフレンドリーにものを頼んでいる感じがします。日本語にも terms of endearment はあるといえるでしょう。

また、英語のように語尾に独立した単語をつけるとなると、「お嬢ちゃん」「ねーちゃん」「にーちゃん」なども同種の表現といえるかもしれません。

ただ、英語のものほど頻繁に使われていないし、バラエティも少ないです。故に、このバラエティに富んだ terms of endearment の訳し方にいつも少し頭を悩ませるのです。

プロはどう訳しているのか

あえて、マイナーな翻訳方略だと思われる例から出してみます。

英語っぽい日本語を書くと定評のある村上春樹訳です。最近キャッチャー・イン・ザ・ライ(2006)を読んだので、そこから例を挙げてみます。

  1. “He’s in his room, dear. Go right in. ” (Salinger, 1945. p.10)
    「先生は自分の部屋にいるわ、ディア。行ってらっしゃい。」(Salinger, 2006. p.14)
  2. “How old are you, chief?” the elevator guy said. (Salinger, 1945. p.96)
    「歳はいくつなんですかい、チーフ?」とエレベーター係の男は言った。 (Salinger, 2006. p.154)

村上春樹訳ではそのままカタカナにしている部分が目立ちます。英語で使われている単語をそのままカタカナで訳出するという判断が、村上春樹の文体が好きな人とそうでない人の境界のひとつとなったりもしますよね(笑)

好みの話はさておき(個人的には英語が透けて見えるような日本語が結構好きですが)、英語にあまりなじみがない人が読むと、なかなか話の雰囲気がつかみにくいのではないでしょうか。一方で、日本語で読んでいるのに異文化を体験できるというとらえ方もできますね。

(この辺りに興味がある人は、「異質化(foreignization)、 受容化(domestication) 」という概念が『よくわかる翻訳学』(2013)pp.136-137 で説明されているので読んでみてください。)

全体を見ると、村上春樹訳の中でもこれ以外の方法で訳している部分もあるのでしょうが、ここでは「そのままカタカナ訳出」という選択肢もあるという例としてとどめておきます。

ちなみに、The catcher in the Rye の代表的な翻訳として長年親しまれてきた、野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」ではこうなっています。

  1. “He’s in his room, dear. Go right in. ” (Salinger, 1945. p.10)
    「とにかくお部屋にいますよ。入っていらっしゃい」(Salinger, 1985. p.14)
  2. “How old are you, chief?” the elevator guy said. (Salinger, 1945. p.96)
    「いくつですね、旦那?」エレベーター・ボーイが僕に言ったんだな。 (Salinger, 1985. p.129)

ひとつめの例では、完全に”dear”が省略されていますね。ふたつめでは、”cheif”を「旦那」と訳しています。翻訳を読んでいると、この2パターン、省略か、日本語で適した表現を当てる場合が多いような印象があります。

私たちはどう訳したか

村上春樹訳や野崎孝訳をお見せした直後に私たちの翻訳を晒すのは気が引けますが、現在翻訳の練習に使っている Black Beauty (2000) から2通りの翻訳例を挙げてみます。

  1. 原文: Well, my dear,” he said to her, here’s something for you.’
    yuki: 「いい子だね」とお母さんに言った。「君にはこれをあげよう。」
    rina: 「いい子だね。これをお食べ」グレイおじさんはそう言って……
  2. 原文: Well, my dear, she said, ‘ how do you like him?’
    yuki: 「それで、あなた。」と奥さんは言った。「どうだったの?」
    rina: 「ねぇ、あなた。この子はどうだったのかしら」

偶然にもふたりの訳が同じになりました。こうやって対訳をパッと提示されると、サッと読み飛ばしてしまうかもしれませんが、実は翻訳している時は結構悩みました。

「dear…ディア…おじさんが馬に優しく語りかけてる…『仔馬ちゃん』…?いや、なんか気持ち悪いな。頭をなでながら…あ、『いい子』で行こう。」

考え方はこんな感じです。一度パソコンの画面から顔を上げて、馬とおじさんを想像しました。翻訳者としてもっと経験を積めば、特に terms of endearment のような頻出の問題においては、「こういうときはこう!」って定型ができてきたりもするかもしれません。でも練習中の私たちにとって、原文と訳文の間で、ある意味での等価を保つために思考するプロセスは初体験になることが多く、そこがおもしろかったりします。この記事は翻訳素人である自分の思考プロセス備忘録でもありますね(笑)

※ここではThe Catcher in the Rye から挙げた例のような、語尾に置かれる呼びかけの例は見つかりませんでした。文頭に置かれると、ほぼ100%の確率で相手を呼んでいるので、訳出せざるを得ない、つまり、この例に限っていうと「省略」という選択肢はなかったように思います。

最後に -「翻訳調」とは

今回は英語特有の、愛情や好意を表す呼びかけの言葉の翻訳について考えてみました。

ここでタイトルの問いに立ち戻ります。どこまでが「翻訳調」と言われ、翻訳者から、または読者から、避けられるのでしょう?

村上春樹訳の例は極端だったかもしれません。(その極端さ故に「好み」の話になってくるのかも。)しかし、重言についての記事でも書いたように、 翻訳者としてはアマチュアであっても、どの単語がどの程度一般の人たちに受け入れられているかを把握するのはいつも難しいのです。

結局答えなんて出ないのですが、10年後には、英語の言語自体や英語圏文化がもっと日本人の間で広まり、「ディア」や「チーフ」なんて無理やり日本語にする方がおかしい、なんて時代になっているかもしれませんね。

参考文献 :
Salinger, J. D. (1951). The Catcher in the Rye. Hamish Hamilton.
Sallinger.J.D. (1985). The Catcher in the Rye. キャッチャー・イン・ザ・ライ. (T. Nozaki 野崎孝, Trans.). Hakusuisha 白水社
Sallinger.J.D. (2006). The Catcher in the Rye. キャッチャー・イン・ザ・ライ. (H. Murakami 村上春樹, Trans.). Hakusuisha 白水社
Sewell, A. (2000). Black beauty. Penguin Books Ltd.
斎藤美野(著) 鳥飼久美子 (編著) (2013)「異質化と受容化(翻訳者の不可視性)」『よくわかる通訳翻訳学 』( pp. 136-137. ) ミネルヴァ書房.

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