翻訳ではなく「翻案」 ―語り手の視点を変えてみる―

翻訳・ことば

大学生の頃に受けた翻訳の授業の課題を今でも「楽しかったなぁ」と思い出すことがあります。

その一つが、「文学作品を自由に作り変えて訳す」という課題です。

特に小説・戯曲などを、“既存の事柄の趣旨を生かして作りかえること”は「翻案」と呼ばれています(goo辞書より)。『よくわかる翻訳通訳学』(鳥飼玖美子 編著, 2013)では、“「翻案」とは、起点テクストの形式はもとより、話の筋や登場人物をも改変する訳出法のこと”と説明されています。

当時授業の担当教員からとにかく自由に訳してくれればいいと言われ、私は課題作品をケータイ小説風に訳してみることにしました。

ケータイ小説って?

皆さん、ケータイ小説を読んだことはありますか?

作家がケータイで書いて読者がケータイで読む、2000年代にブームを巻き起こした媒体です。ケータイ小説の歴史を調べていると、どうやら私は第二次ブームの世代ど真ん中だったようです。(魔法のiらんどが私の青春です。イケメンヤンキーに囲まれるかわいい女の子の物語を読んで、うわぁバイクの後ろ乗ってみたいなぁ…と妄想を巡らせる思春期を過ごしました。笑)

そんなケータイ小説の文体ですが、私が読んでいた作品では、女の子の一人語りで作品が完結する場合が多かったです。セリフ以外の地の文も、ヒロインの女の子視点で描かれていました。

でも一番印象に残っているのは、女の子サイドと男の子サイドに分けられた綴り方です。つまり、か弱い女の子がヤンキーに絡まれたシーンがあったとして、女の子側の「何よこんなヤツ、信じらんない!」を読んだら、次のページではヤンキーの「その時は、ただの地味女だと思ってた。」が読めるわけです(笑)。私はその両方の気持ちを交互に綴る見せ方が好きだったので、今回の課題作品でも語りの視点を変えてみようと考えました。

また、単純にその書き方が好きだったことに加えて、授業の課題作では愛し合う夫婦のやり取りや、お互いを思って過ごす時間が描かれていたため、登場人物の感情をより色濃く表現できれば楽しいかもしれないと考えました。例えば妻が悲しんでいる姿を第三者の視点で描写するのと、妻を愛する夫が語るのとではきっと温度感が変わりますよね。

夫婦本人たちの視点から語ると、感情の温度感や抑揚をより濃く表現できる気がして、ケータイ小説の語り口が頭に浮かびました。

語りの視点が変わることのおもしろさ

課題の作品は1905年に出版された短編小説、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』(原題:The Gift of Magi)でした。愛し合う夫婦の、クリスマスにまつわる心温まるお話です。裕福とはいえない若い夫婦が、クリスマスにお互いに贈り物を買おうとするのですが、そこで行き違いが起こります。まだ読んだことがない方はぜひ一度読んでみてください。

原作『The Gift of the Magi by O. Henry』はProject Gutenberg で読めます。
結城浩氏による日本語訳は青空文庫 で読めます。

ではここから、実際の視点の変化とそれによる効果、なぜここでこの人に語らせたかったのか、など、私の個人的な好みや見解を語っていきたいと思います…。

Ⅰ 言葉には表れていない愛情を、あえて表に出したい

物語の中盤で妻のデラは長く美しい髪を売ってしまいます。ここでご紹介するのは、夫のジムが帰宅し、髪が短くなった妻の姿を初めて目にするシーンです。

His eyes were fixed upon Della, and there was an expression in them that she could not read, and it terrified her. It was not anger, nor surprise, nor disapproval, nor horror, nor any of the sentiments that she had been prepared for. He simply stared at her fixedly with that peculiar expression on his face.

Della wriggled off the table and went for him.

“Jim, darling,” she cried,

The Gift of the Magi, O Henry

読者もドキドキするようなシーンで、特にデラの不安が顕著に読み取れます。

このデラの不安をデラ自身の視点で描くことで、より緊張感の伝わるシーンにできるのではないかと考えました。また、デラが泣き出す瞬間を夫目線で見てみたいと思ったため、原文の青色ハイライトの部分からはジム視点に切り替えました。

-デラside-

ジムの目は私に留まっている。表情からは何を思っているのか読めない。こわい。その表情は怒りではなく、驚きでもなく、失望でも、恐怖でもない、予想していたどの反応とも違っていた。

-ジムside-

デラの姿に言葉が出ず、ぼうぜんと立ち尽くした。

デラがゆっくりとテーブルを降り、僕の元へと歩み寄った。

「ねぇ、ジム…」 愛する妻は泣いている。

「He simply stared at her fixedly with that peculiar expression on his face」の部分は、ジムは言葉で形容できる表情も浮かべられないほどに動揺したのだと解釈し、「ぼうぜんと立ち尽くした」という表現を選びました。

また、最後の一文には「愛する」妻と、原文にはない情報を勝手に足しています。ジム視点で、自分がぼうぜんと立ち尽くしたあとに泣き出す妻を見ると、絶対に心が痛むと思ったからです。心がぎゅうっと締め付けられているような感覚を表現したく、「愛する妻」と書きました。(うぅ…何が何だか、まだ把握できていないけど、とりあえず抱きしめてあげたい…)という感じのイメージです。

他にも文の区切り方を変えたりなど、色々と好みの変更を加え、「この人ならこう感じそう」「この人ならこう言いそう」を形にしようと試みました。原文からの変化を見つけて楽しんでもらえれば嬉しいです。

Ⅱ この情景はこの人視点で描きたい!

次は、デラがジムにもらった贈り物を開けて、デラが泣いてしまうシーンです。原文は2文、デラが櫛をもらったのに、髪はすでに切ってしまったことを描写する1文と、それに続いてデラが明るくふるまう様子を描写する1文です。

And now, they were hers, but the tresses that should have adorned the coveted adornments were gone.

But she hugged them to her bosom, and at length she was able to look up with dim eyes and a smile and say: “My hair grows so fast, Jim!”

The Gift of the Magi, O Henry

悲しみの描写は、デラ自身の視点で語るとより悲壮感が描けると思いました。

デラが櫛を抱きしめて顔を上げる様子からはデラの健気さが感じられ、ジムもきっとそういう部分を好きになったんだろうと(完全に憶測で)解釈し、この情景はジムの視点でぜひとも体験したい!と思ったので、ジム視点にしました。

このようにして、二人のやり取りの部分の割り振りは「この気持ちはデラ本人に語らせたい」「ここはジム視点で見てみたい」などの動機によって自然ときまっていきました。

-デラside-

これほど欲しかった櫛が手に入ったのに、飾る髪がもうないなんて。

-ジムside-

泣いていたデラは大事そうに櫛を抱きしめ、目をうるませたままようやく顔を上げ、微笑んだ。

目をうるませたまま顔を上げるデラなんて、愛おしいですよね、絶対かわいい…しかも一瞬にして前向きになれて(いるのかはわからないけど)気丈にふるまうなんて、優しさと強さを持ち合わせた素敵女子…!!!

ここは作中でも特にドラマチックな場面を、あえて自分なりの解釈や自身の意向をゴリゴリに表に出して訳してみた2文でした。

Ⅲ 言語的な表現の変化を楽しむ

最後に、視点が変わることによる言語的な表現の変化を見ていきます。

作品冒頭に戻ります。妻のデラが登場し、夫婦の貧しさが描写されるシーンです。

One dollar and eighty-seven cents. That was all. And sixty cents of it was in pennies. Pennies saved one and two at a time by bulldozing the grocer and the vegetable man and the butcher until one’s cheeks burned with the silent imputation of parsimony that such close dealing implied. Three times Della counted it. One dollar and eighty-seven cents. And the next day would be Christmas.

The Gift of the Magi, O Henry

ここは、実際登場しているのがデラなので、デラsideで語ってみることにしました。太字部分に注目して読んでみてください。

-デラside-

1ドルと87セント。たったそれだけ。そのうちの60セントは小銭の寄せ集め。乾物屋、八百屋、肉屋で買い物をするときに、しつこく値切って浮かせた。店主の態度で嫌がられているのがわかり、顔がかっと熱くなるのだ。三回数えた。やっぱり1ドルと87セント。明日はクリスマス。

「デラside」で語ると主語が自分になるため、「one’s cheeks burned」という部分では、「顔が赤くなる」というような視覚的な表現ではなく、「かっと熱くなる」とデラが実際に感じている感覚に重点を置いた表現にしました。

もう一つ例をご紹介します。デラが悲しさに明け暮れた後のシーンです。

Della finished her cry and attended to her cheeks with the powder rag. She stood by the window and looked out dully at a grey cat walking a grey fence in a grey backyard.

The Gift of the Magi, O Henry

太字部分に注目して読んでみてください。

泣きやんで、崩れてしまった顔に粉をはたいた。視界はぼんやりとしている。窓からみえる灰色の裏庭、灰色の塀の上を灰色の猫が歩いている。

原文では「She (~) looked out dully」と、彼女がぼんやりと外を眺める様子が第三者の視点で描かれていますが、ここはデラsideにしたので「視界はぼんやりとしている」と主観的な表現にしました。

文面では伝えきれず悔しい限りなのですが、意外とこの作業、読んだ文章の登場人物の視点でものごとを見てみる、いわば物語に自分が飛び込むような作業で、すごくすごく楽しいんです。ぼんやりと外を眺めるデラ…にヒューンと自分が飛び込むと、あぁ、さっきまで泣いてたから視界がぼやける…というような一連の体験を経て、その情景を表す言葉を探すような作業です。ふふ、楽しいです。

おわりに

翻訳のお仕事ではこのような改変をすることはまずあり得ませんが、原作の魅力を違った形で引き出す「翻案」は、それ自体が楽しく意義のある行為だと改めて感じました。そして、こんなことを教授の指導のもとやらせてもらえて他の学生の訳文と比較したり感想を言い合えたりしていた学生時代、よかったなあと思わずにはいられないです。

そういえば今日は久しぶりに出身大学の図書館へ行きます☆ミ たのしみ。

『賢者の贈り物』を読んだことがない方は、ぜひ読んでみてくださいね。

\ご意見やご感想などぜひお聞かせください☺/

参考文献

鳥飼玖美子(編著)(2013)「よくわかる翻訳通訳学」ミネルヴァ書房 https://www.minervashobo.co.jp/book/b122275.html

原作『The Gift of the Magi by O. Henry』はProject Gutenberg で読めます。
結城浩氏による日本語訳は青空文庫 で読めます。

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