メトニミーって何?【メトニミーの翻訳】

翻訳のあれこれ

こんにちは!

本記事では、Conrad 著 Heart of Darkness (1899)と、その訳書『闇の奥』の中野好夫訳 (1958) と黒原敏行訳 (2009) を使って、「メトニミー/換喩(かんゆ)」、またその翻訳について考えてみたいと思います。

メトニミーの説明にしばしば用いられる例として、「ショパンを聴く」というような表現があります。

実際に聴いているのはショパンの“なのですが、我々人間には言葉の意味を推測する力があるので、「ショパンを聴くって何なん!?“ショパン”は人間やんw」とか言う人はいないわけです。

本記事では、そのような修辞技法メトニミーの意味や使われ方、言語学的な定義を概観したのち、ではメトニミーは翻訳とどのように関連するのか……ということを考えていきたいと思います☺

メタファーについての記事も書いたことがあります(/・ω・)/ 気になった方はのぞいてみてください

メトニミーとは

メトニミーの定義について、まずは辞書に載っている意味から確認したいと思います☺

かんゆ-ほう【換喩法】
(metonymy)修辞法の一つ。あるものを表すのに、これと密接な関係のあるもので置き換えること。角帽で大学生を表す類。⇔隠喩法(広辞苑第六版)

かん-ゆ【換喩】
比喩法の一つ。ある事物を表現するとき、それと関係の深い別の事物で表す法。「二本差し」で武士を、「金バッジ」で国会議員を表すなどの類。メトニミー。(明鏡国語辞典)

なるほど。逆にいえば関係の深い事物でなければ、メトニミー(換喩)は成り立たないということですね。

ショパンを聴く」の例では、「ショパン」と「音楽/曲」が密接に関係しているため、メトニミーが成り立ちます。「イチローを聴く」では、あの野球選手のイチローと音楽などが密接に関係しているとは思えないため、メトニミーとはなりません。

それでは辞書的な定義からもう少し踏み込んで、認知言語学の立場からメトニミーを見てみます。

高橋(2010)によると、メトニミーには2種類あって、ひとつは上でもみた「密接に関係する語で何かを表現する」パターンです。もう一つは、あるものの部分で全体に言及する、またはその逆、あるものの全体で部分に言及するといったものです。

例えば、「全米が泣いた」という表現は、全米の人々が泣いたことを表します。全米自体が泣くことはできません。これは、高橋(2010)によると「全米」という全体を指す言葉で「全米の人々」という一部分に言及しているということです。

また、「頭を下げる(=お辞儀する)」という表現はその逆、部分で全体を表す例となります。頭という体の一部分を下げると表現することで、腰を折ってお辞儀をするという体全体の動作に言及しているのです。

以上をまとめると、下図が成り立ちます。

参考:高橋秀光(2010)『言葉のしくみ』. 北海道大学出版会.

密接な関係を持つ語で他のことに言及するパターン、あるものの全体で一部分に言及するパターン、そしてその逆、一部分で全体に言及するパターンです。

メトニミーと翻訳

では、メトニミーと翻訳はどのように関連するのでしょうか?

メトニミーは、ある言語や文化特有の場合があるのです。

例えば、アメリカでは野球に関するメトニミーが多く、“We need a strong arm (=a good pitcher) for the next season.” と言ったりします。日本語で「来シーズンは強い腕が要るなぁ」と言われてもいまいちピンときませんよね。

何かを何かで置き換えて表現している部分、つまりメトニミーに気づくと、その言葉が本当に指している事物は何かを考えるきっかけとなります。メトニミーのメカニズムを理解することは翻訳にも大いに役立つのではないでしょうか。

『闇の奥』より例

それでは、ここからConrad 著 Heart of Darkness (1899)よりメトニミーを抜き出し、中野好夫 (1958) と黒原敏行 (2009) はどのように訳出しているかを見てみます。

「部分で全体」のメトニミー

まずは以下の訳例をご覧ください。

原文 (p. 56)中野訳黒原訳
And, after all, they did not eat each other before my face:それに僕の眼の前じゃ、決して恐ろしい共喰いはしなかった。こっちの眼の前で食い合いをしたわけじゃないしね。

ここでは、「自分の前では彼らは共喰いをしなかった」という事実が、太字で示したように原文では“before my face“、訳文ではどちらも「眼の前」と表現されています。

原文の方から考えると、ここでは字義どおりに「顔の真ん前」で共喰いをしなかったことを指しているわけではありませんよね。自分自身(全体)を顔(部分)で表したメトニミーと考えることができそうです。

そして、訳文の「眼の前」ではさらに細かく、顔のパーツ「眼」で表現されています。日本語では「顔の前」よりも「眼の前」がよく使われる表現なので当然と言えば当然の変化かもしれませんが、原文と訳書を比べてみるとこのような言語間の表現の違いに気づく機会が多々あります。

自分が翻訳をする時にも、メトニミー的表現のメカニズムを知っていることで、直訳に起因する誤訳を防ぐことができるかもしれません。

「全体で部分」のメトニミー

次に全体から部分に言及するメトニミーを見てみましょう。

これは、主人公が話を聞いているうちに、面識のないクルツの人物像がだんだんと見えてくる場面です。

原文 (p. 5)中野訳黒原訳
As to me, I seemed to see Kurtz for the first time.僕としても、なにかはじめて眼のあたりクルツを見たような気がした俺はといえば、この時初めてクルツの姿が見えた気がした

原文で“see Kurtz” と書かれていますが実際に会っていないので、ここではクルツの人柄が見えた、クルツのたたずまいが想像できた、といったような意味になるかと思います。つまり、Kurtz という人(全体)で彼の人柄や姿、様子(部分)を指している、全体で部分を表現していると考えられます。

中野訳ではそのまま「クルツを見た」と訳されています。それに対し黒原訳では「クルツの姿」と訳出されています。

今週ずっと『闇の奥』の分析についての記事を投稿していますが、昨日の記事『時代によって変わる翻訳の規範』で、黒原訳の方が中野訳に比べて詳しい訳出を行うという傾向が見られていました。

本記事が注目しているのはメトニミーの翻訳ですが、同じ傾向が見られます。

密接な関係(隣接性)に基づくメトニミー

最後に、密接に関係する語で置き換えるパターンのメトニミーを見てみます。

以下は、過去に富と名声を追い求め、港から出帆していった者たちについて語られている部分です。

原文 (p. 5)中野訳黒原訳
bearing the sword, and often the torch,あるのもはを、あるものは文化の炬火を携えて、を帯び、しばしば松明を携え、

彼らは実際に“the sword and the torch“、剣と松明を携えてもいたかもしれません。

しかし、英語では“sword” や“torch” は何かを象徴するものとして、しばしばメトニミー的に用いられます。“sword” は武力や兵士を指します。“torch” は学問、知識、文化の象徴となります(ジーニアス英和辞典参照)。

複数の論文や文学の授業のオンライン教材を見ていると、原文でも、このメトニミー的な意味も含めて用いられたと考えられそうです。

訳文を見てみると、“sword” はどちらの訳でも「剣」と訳されていますが、“torch” は中野訳で「文化の炬火」となっています。中野訳ではメトニミー的な意味も訳出されていると言えるでしょう。一方で黒原訳ではそのまま「松明」と訳されています。

一つ前とは逆で、中野訳がより詳しい訳出を行っている例でした。

おわりに

メトニミーのパターンを把握し、実際翻訳ではどのような変化が起こっているのかを見てみました。

どの訳文が正解かということではなく、このメトニミー的なメカニズムを把握しておくことこそが重要なのだと思います。

そして、言葉は、モノでも考えでも概念でも、何でも表現できるように思えますが、それは私たちの認知の力が大きく働いて、推測できるからこそ成り立っているのかもしれません。

特にふわっとしたイメージを言葉に落とし込む場合って、そのイメージのほんの一面しか表現できていなのかなぁなんて思います。だからこそ、別の言語でそれを表現する時には本当に原文が指しているのは何なのか、と常に意識していきたいです。

そんなことに思いを巡らせる際に、メトニミーもひとつの考え方としてかなり重要であり、有用なのではないかと思います。

今回は語彙や表現のレベルで訳書を見てきましたが、明日から2日間はもう少し広い視点で、かなり深い分析に入っていきます。楽しみにしていてください☺

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あるものを全体と部分と捉えることだとか、「密接に関係している」ことの「密接性(隣接性)」の定義とか、もっと気になった方は参考文献も読んでみてくださいね。

参考文献
高橋英光(2010)「言葉のしくみ: 認知言語学のはなし」 北海道大学出版会.

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