2種類の訳書から見る語彙の変遷

翻訳・ことば

こんにちは!

ConradHeart of Darkness (1899)は、何種類もの邦訳が出版されています。

邦訳のタイトルは『闇の奥』、一番古いものが中野好夫訳 (1958) で、最新のものが黒原敏行訳 (2009) です。

今回、この訳書2冊を用いて翻訳がどのように行われているかを観察し、今後自分たちの翻訳スキルの向上に役立てよう!という話になりました。

選んだ訳書2冊の出版年が50年ほど開いていることもあり、日本語の語彙の意味や使われ方の変遷が見えた部分が多くありました。

本記事では訳書から見える語彙の変遷について、考えてみたいと思います☺

たとえば……

原著14ページに出てくる“flat cloth slippers” は中野訳では「羅紗(ラシャ)スリッパ」、黒原訳では「室内履き」と訳されています。

同じ“flat cloth slippers” を指していますが、読み手が受けるイメージは異なりますね。

私なんかは恥ずかしながら「羅紗」が何かを知らなかったので、もし中野訳だけを読んでいたらうまくイメージできなかったと思います。しかし、羅紗という生地を知っている人からすれば羅紗スリッパと言ってもらえた方がただの室内履きと言われるよりも詳細なイメージが湧きやすいですよね。

羅紗とは…
紡毛を密に織って起毛させた、厚地の毛織物。室町末期ごろに輸入され、陣羽織・火事羽織、のち軍服・コート地などに使われた(goo 辞書より)。
今では羅紗の一種として「メルトン」という名前がファッション業界ではよく使われるようです。

ここまで考えて、Conrad が書いた“flat cloth slippers” が本当に羅紗スリッパであったのか、もしくは、日本の文脈において室内履きといえば羅紗スリッパが主流だったからという理由で、羅紗スリッパと訳されたのか…と疑問を抱きました。

1900年頃にヨーロッパで使用されていたのが本当に「羅紗スリッパ」であったとすれば、中野訳はより詳しい翻訳、黒原訳は私のように「羅紗スリッパ」になじみがない読み手にとってわかりやすい訳ということになります。

もし、原文が指すものが「羅紗スリッパ」でなかった場合は、上でも書いたような、その時代の日本人にとっては「羅紗スリッパ」が主流だったからこその工夫か(この場合は翻訳学でいうナイダの「動的等価」が保持された訳になりますね)……他にも考えられる理由はあるのでしょうか?

中野さん、黒原さんの文体の特徴などは恥ずかしながらあまり知らないので、語彙の使用の相違がそこに起因すると言われてしまうとそれまでですが、以下でご紹介する複数の語彙の違いを眺めていると、けして翻訳者の好みや工夫だけの話ではなく、日本語の変遷の一端が見えた気がしました。

本記事では主観的な考察が多くなってしまうかもしれませんが、お読みいただく中で何か私がたどり着けていない事実をご存知でしたらぜひTwitter やメールなどで教えていただきたいです!☺

ともあれ本記事では、語彙の使われ方やひとつの語彙が示す概念や意味の変遷に着目します。気になる部分を原著の13ページから20ページにわたる部分より抜き出し、あれこれと考えてみたいと思います。昭和30年代と、平成20年代の語彙や表現はどう異なるのでしょうか。

モノの変遷、語彙の変遷、社会の変遷

では、私が語彙の変遷を感じた項目を3つほど、まとめてご紹介したいと思います。

原文   中野訳      黒原訳   
a foot-warmer (p.14)足温め足温器
calipers (p. 16)測径コンパスノギス
black fellows (p. 19)黒奴(ルビ:くろんぼ)黒い連中

足温めと足温器

1つ目、「足温め」を広辞苑で引くと、「足焙り(あしあぶり)に同じ」と出てきます。足焙りの意味は、以下です。

あし-あぶり【足焙り】
炭火などを入れて足をあぶり温める道具。冬の季語。(広辞苑第六版)

電気を使った「足温器」がない時代の暖房器具を指す言葉のようです。画像検索するとヴィンテージ感のある木製の箱型のような暖房器具がヒットしました。

一方、インターネットで「足温器」を調べると販売中の商品が多くヒットします。”a foot-warmer” に対応する現代の暖房器具は「足温器」ですね。

同じ“a foot-warmer” の翻訳ですが、日本語の指すものが異なります。使われるモノの変化が見られる事例でした。

私が「足温め」になじみがないからかもしれませんが、2種類の翻訳から日常で使われるモノの変化を読み取れるなんて楽しいなぁと思います。

測径コンパスとノギス

2つ目の“caliper” は中野訳で「測径コンパス」とされていますが、広辞苑、明鏡国語辞典には「測径」自体が載っていませんでした。Weblio には「測径器」であれば載っていました。「測径コンパス」というのは造語なのでしょうか。

しかし、造語であったとしても、わざわざ辞典を引くまでもなく、「径(長さ)」を「測る」、「コンパス(2本の脚からなる道具)」のような器具だな、と文字から見て取れると思います。

一方で黒原訳では「ノギス」と訳出されています。

中野訳が出版されてから50年の間にこの“caliper” という器具とその名前が日本へやってきて、対訳が定着したのかもしれません。

ただし、Wikipedia の「ノギス」のページを見ていると、日本語の「ノギス」と英語の“caliper” が指し示す範囲は若干違うようです。「ノギス」は左の図のような器具のみを指すのに対し、“caliper” は外パス、内パスと呼ばれる別の器具のことも指すようです。英和辞書で“caliper” を引くと「カリパス」と書いてあります。

原文で登場した“caliper” が外パス/内パスなのか、ノギスなのかはわからなかったため、訳文の正誤はここでは判断できません。しかし、自分が翻訳をする際には、定着しているように見える対訳がある場合にもすべて鵜呑みにせず、前後の記述などからその単語が指している本当の意味までたどり着けるよう意識していきたいです。

測径コンパスとノギスは、語彙の輸入あるいは定着がうかがえる例でした。

黒奴(くろんぼ)と黒い連中

この話題はもうみなさん一目みておわかりなのではないでしょうか。

差別用語の扱いやポリティカル・コレクトネスの話題は、もう世間にかなり馴染んでいるように感じます。

しかし、『闇の奥』のレビューなどを見ている時に、当時原著の著者Conrad が差別的な言葉をよく使用していたため人種差別主義者と批判されたという文章を目にしました。そうすると、その差別用語もそのまま翻訳してしまわなければ、原文の持つメッセージはある意味では失われてしまうんだなぁと思いました。

黒原訳の「連中」でも悪い奴感、もしくは少し親しみを込めて悪い呼び方をするしているような雰囲気が出ている気もしますが、やはり原文で差別用語が使われていることは、訳文でも差別用語を使わないと伝わりませんね。

例えば数十年前に書かれた文書を翻訳するとして、そこに差別用語があった場合にはすべて差別要素を含まない柔らかい言葉に置き換えるしかないのでしょうか?気になります。

黒奴(くろんぼ)と黒い連中、社会の変遷が見られる例でした。

おわりに

中野訳と黒原訳で異なる語彙に着目して、様々な変化について考えてみました。

語彙レベルに着目するだけで、モノの変遷語彙の変遷社会の変遷と様々な変化が読み取れて楽しかったです。

ところで、翻訳をしていると、自分の生きた時代のことでなければ、当時は当たり前に受け入れられていたようなことでもまったくわからない、という経験がけっこうあります。

翻訳を勉強し始めたころは、「私ってインターネットが普及した時代に生まれてラッキー☆彡」くらいにしか考えていませんでしたが、まだまだインターネットを駆使してもたどり着けない情報が山ほどあります。

こういうことって、意外と祖母に聞いたら「昔はこうやったなぁ~」と言われて一瞬で解決したりもするのですが、わざわざ毎回祖母に電話をするわけにもいかず、調べ方について最近少し悩んでいるところです。

お悩み相談になってしまいました(笑)

ここまで読んでくださったみなさんの娯楽や気づきの一部になれていたら幸いです。

Heart of Darkness の分析はこれから5回続くので、明日以降の記事もぜひご一読ください☺


インスタグラムにサイトで使った画像やイラストを投稿しています☺

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