今回の記事では、「翻訳はどうあるべきか」という規範の変化についてみてみたいと思います!
例えば、お笑いでいうと、一昔前だったら、人を罵倒したりいじったりする鋭く厳しい笑いが多かったですが(特に関西では)、最近は、自分のことをいじっても人のことは悪く言わないような、穏やかで優しい笑いが主流になりつつあると感じます。
こんな風に、翻訳にも時代ごとに主流となるもの(規範)があります。
Heart of Darknessの2種類の訳書(中野訳; 1958、黒原訳; 2009)は出版された時代が異なるので、規範の変化がみられるのではないかと考え、ちょっと探ってみることにしました🔍
それぞれの時代では、どんな規範がみられるのでしょうか!?
翻訳の規範とは?
少し学問的に、「規範」とは何かを確認しておきたいと思います。
翻訳学者のGideon Toury(1995/2012)によると、規範(norm)とは以下のようなものだそうです。
the translation of general values or ideas shared by a community–as to what is right or wrong, adequate or inadequate–into performance instructions appropriate for and applicable to particular situations. (p. 63)
あるコミュニティーと共有している一般的価値ないし考え-何が正しく、何が誤りか、何が適切で何が不適切か-を、特定の状況にふさわしく、適用可能な作業指示に翻訳したもの(『翻訳学入門』; p.173)
日本を舞台にして考えてみると、「規範」に従うということは、日本の社会/読者に受け入れられるような翻訳をすること、という風に解釈できます。つまり、「規範」=「社会/読者に受け入れられる基準」と考えられるかもしれません。
当たり前ですが、社会は時代によって変化します。それに伴って、規範も変化して然るべきなのです。今回は、そんな規範をみるために、訳文の語尾や表現に注目してみました!
訳例をみてみよう!
早速ですが、2つの例を用いて、どのような違いがあるのかみていきましょう。
① 話し言葉 or 書き言葉
1つ目は、主人公が樹林で遭遇した男のセリフです。
原文 (p.40) | ‘Serve him right. Transgression—punishment—bang! Pitiless, pitiless. That’s the only way. This will prevent all conflagrations for the future. I was just telling the manager…’ |
中野 (p.66) | ざまぁ見ろだ。悪いことをすりゃ、罰だ、ピシッとな。冷酷だ、冷酷にやるにかぎる。こうして置きゃ、今後はもう火事も出まいからな。俺は今も支配人に会って… |
黒原 (p.66) | ざまぁみろだ。悪さをしたら罰を下す-ばしっとな!お情けは無用、無用。それが一番。これでもう一生起こらんだろうよ。今も支配人に言ったんだが… |
並べてみると、中野訳と黒原訳では結構印象が違いますよね。
中野訳の方が江戸っ子っぽい、というか、カジュアルな印象を受ける一方で、黒原訳は割と淡々とした印象です。
特に気になった箇所を上では太字にしていますが、表でもまとめてみました。
原文 | Transgression | This | prevent all conflagrations |
中野 | 悪いことをすりゃ、(👄) | こうして置きゃ、(👄) | (火事も)出まい(✏️) |
黒原 | 悪さをしたら(✏️/👄) | これで(✏️/👄) | 起こらん(👄/✏️) |
こうしてみると、中野訳では「すりゃ」や「置きゃ」のように、口語的に語を活用させていることがわかります。一方で、黒原訳は、「したら」や「(これ)で」というように口語でも文語でも成立する語の活用をしています。中野訳は話し言葉をそのまま文字にしているので、カジュアルな印象になるのは、納得ですよね。
余談ですが、関西弁(私の方言だけ?)では、「〜するのなら」→「〜すんにゃったら」と言います。携帯電話を持ち始めた頃、この変換(「〜すんにゃったら」→「〜するのなら」)ができず、この表現をどのように文字で表せばいいんだろう…と考えたことを思い出しました٩( ᐛ )و
ただ、「(出)まい」と「(起こら)ん」だと反対の印象になりませんか?
というのも、黒原訳の「(ら)ん」は、「『生活語』でよく使う言い回しとよく聞く言い回し(伴, 2016, p. 4)」だといわれています。つまり、基本的には話し言葉だと言えます。「~まい」は話し言葉でも用いることはできますが、「書きことば的なかたい表現(グループ・ジャマシイ,1998, p. 534)」と指摘されているのです!ということは、中野訳には、話し言葉と書き言葉が混在しているとも考えられます。
実は、この点からも規範の変遷の一端がうかがえます。少し大きな話になりますが、この違いというのは教育に関わっているようなんです。志賀(1994)によると、戦後の日本の教育では、(日本語の)話し言葉によるコミュニケーションに焦点が当てられるようになりました。特に、日本語の話し言葉の教育についての本が出版された1966年を機に、それまで曖昧だった「話し言葉」と「書き言葉」の境界線をはっきりさせていく必要性が認識され始めたのです。つまり、中野訳が出版された1958年にはまだ曖昧だった境界線が、黒原訳が出版された2009年には確立されていたと考えられます。
そのため、中野訳では話し言葉も書き言葉もそれほど意識して使い分けなくてもよかったものが、境界線が確立されてきた黒原訳の時代においては、文字で読むものには書き言葉を用いることが規範となったのかもしれません。
② 解釈する or 誤解しない
では、もう一つみてみましょう。
これは、とある事業所の社員が言ったセリフです。
原文 (p.45) | ‘That animal has a charmed life,’ he said; ‘but you can say this only of brutes in this country. No man— you apprehend me?—no man here bears a charmed life.’ |
中野 (p.75) | あん畜生、どうも不死身ってやつでね、あいにく人間にゃ、-ねぇ、そうでしょう-一人だっていやしない。 |
黒原 (p.73) | 『あいつは不死身なんですよ。』と若い一級社員は言った。『でも、この国で不死身であり得るのは獣だけです。人間は違う-わかりますか-この土地には不死身の人間なんていやしないんです。 |
またしても、2つの訳にはかなり違いがありますよね。ちなみに、“That animal”は、比喩でもなんでもなく、本当に動物(カバ)のことを言っています。では、先ほどと同様に、特に面白いと思った箇所は上で太字にしていますが、以下でもまとめてみます。
原文 | That animal | No man | no man here bears a charmed life. |
中野 | あん畜生 | あいにく人間にゃ、 | 一人だっていやしない。 |
黒原 | あいつ | 人間は違う | この土地には不死身の人間なんていやしないんです。 |
やはり、中野訳では、より口語的で、カジュアルな印象を与える表現が使われています。「あん(畜生)」と「(人間)にゃ」のような表現から、話し手のクセの強さが垣間見えます。それに対し、黒原訳だと、例えば、“no man”という2語に対しても、「人間は違う」と文として完結した表現を用いており、中野訳より堅い印象で、話し手からクセの強さは感じません。
また、黒原訳のしっかりと訳す傾向は“no man here bears a charmed life.”の訳にも現れています。黒原訳は、「この土地には不死身の人間なんていやしないんです。」と詳しく訳している一方で、中野訳は言葉少なめに訳していて、「一人だっていやしない。」→「不死身の人間はいないってことね」というような解釈をする必要があります。原文は主語と述語(SV)があって完全な文ですが、主語が欠けている中野訳は文法的には不完全な文になります。そのため、主語(主題)を補完するという過程は中野訳の読者だけが経験すると考えられそうです。
「読者自身の解釈を挟まずにすっと読める黒原訳」と、「読者が少し考える機会が与えられた中野訳」ということも見えてきました。
考察
以上のことから、中野訳からカジュアルな印象を受けるのは、話し言葉が多いからだとわかりました。それによって、話し手がどんな人かというイメージは湧きやすいように感じます。一方で、黒原訳は、基本的に文語が使われていて、少し堅い印象ですが、誰もが馴染みのある表現で訳出されていて、違和感のない訳出だと思いました。
それを踏まえて、規範について考えてみると、
中野訳では、話し手のキャラクター性を鮮明に描くこと、読者に考える余韻を与えることが意識されているのかもしれません。ひいては、その点が規範だったとも言えるかと思います。
反対に、黒原訳では、基本的には文語に徹した訳出で、比較的淡々とした語り口でした。そのため、話し方以外の部分、例えば、語彙選択などで話し手のイメージを伝えるように意識されているのかもしれません。また、曖昧な表現が少なく、詳しく訳出していることもみられたので、的確な言葉選びと詳細な訳出で誤解のない翻訳をすることが黒原訳が出版された2009年あたりの規範だとも考えられます。
今回詳しく調べることができなかった語彙の選択についてもみていきたいところです☺︎
まとめ
今回扱った訳書はたった2種類で、その中でもほんの一部しか調べられていません。そのため、上でわかったことはただの傾向にすぎませんが、2種類の訳を並べてみると、かなり印象が違って面白かったです。個人的には、文章、特にセリフを読むと、脳内で誰かがそのセリフを話しているところを想像してしまうタイプなので、中野訳に近い形で訳す傾向がありますが、トレンド的には黒原訳のように書き言葉としてニュートラルに訳す方が良いのかな、と思いました。
翻訳は社会と共に生きるものだと思うので、PTCの活動などを通して、時代の流れに合う訳し方を学んでいけたらいいなぁ、なんて思っています。
もちろん、プロの方だったら我流を貫くのも素敵だと思いますが、あくまで練習中の身としては、まずは規範に従う力をつけていきたいものです☺️
アドバイスも含め、様々なご意見・ご感想をお待ちしております!
参考文献
Toury, G. (1995/2012) Descriptive translation studies and beyond, John Benjamins.
ジェレミー・マンディ(2009)「翻訳学入門」鳥飼玖美子監修. みすず書房
志賀一清(1994)『日本語教育における書き言葉の表現について』「横浜国立大学留学生センター紀要」1, pp. 55-63.
グループ・ジャマシイ(編)(1998)『教師と学習者のための日本語文型辞典』くろしお出版
伴紀子(2016)『アカデミアの回想 (アカデミア文学・語学編第100号記念号掲載エッセイ)』「アカデミア. 文学・語学編」100, pp. 7-10.
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